広島三育学院
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608 回視聴 ・ いいね ・ 2020/06/03
広島三育学院ではコロナウイルス対策のため休校期間中下記のスケジュールで宗教プログラムをオンライン配信いたします。
☆宗教部プログラムは中高生共通のコンテンツです。
・毎週土曜日安息日礼拝はライブ配信
・毎週月・火・木の18:45から、金曜日は18:00から中学校の教員又は中学生(教員が代読)によるメッセージを配信
・毎週水曜日はチャプレンによる祈祷会を配信
・毎週日・金は高校教員によるショートメッセージ(peace time)
※日・金以外にも不定期配信あり
以下原稿です。
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「素直に祈る」
聖書の中には様々な祈りが登場します。多くの人が、それぞれの願いの中で神様に祈り求めてきました。そして、聖書に登場するそれらの祈りは今日の私たちにとっても共感できるものが多いように思います。
私は広島三育学院のチャプレンとなって2年目となりました。学院で生徒たちと過ごしていますと、不思議とそれまで思いだしもしなかった私自身の生徒の頃の記憶がよみがえります。それは、私自身も中学生の頃に経験したような生活や出来事が身近にあるからでしょう。中学生と一緒にいるため、高校生の頃のことはあまり思いだしませんが、高校の卒業記念品を日常生活で見かける機会があります。本部等の玄関から、あるいは中学校校舎から、教員室へのぼる階段の真ん中に設置されている聖書が私たちの卒業記念品です。毎日、何度も通るその場所に卒業記念品が置かれているのはなんとも不思議な気持ちになりますが、そこを通る時たまにふとそこに刻まれている数年前に選んだみ言葉を思いだすのです。それはマルコによる福音書9:23です。その続きの24節もお読みします。
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
エレン・ホワイトは「祈りとは、友だちに語るように、心を神に打ち明けることであります。」(『キリストへの道』118ページ)と記しました。もしそうであるなら、聖書の中で人々がイエス様に語りかけている言葉もまた祈りなのかもしれません。聖書の中で人々がイエス様に自分の苦しみを打ち明ける言葉、それは祈りの言葉であるということができるのかもしれません。
そしてそのように考える時、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」これは聖書の中に登場する様々な祈りの中でも、私の一番好きな祈りです。この、素直な、心を神様に打ち明けた叫びが私は好きなのです。
あるところに父親がいました。息子は悪霊につかれていて、何度も殺されかけていました。そこで父親は息子を癒してもらおうとしてイエス様の弟子たちのもとへ連れていきました。しかし、弟子たちに息子を癒すことはできませんでした。もとの言語で聖書を読みますと、弟子たちは癒しを行うのには「十分ではなかった」という書かれ方をしております。それを聞いたイエス様は「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われました。父親はそのイエス様に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 と嘆願します。
信じる、ということは単純なことのようです。お金もいらない、労力もいらない、学力も、その他の特別な能力もいらない。ただ、信じる、それだけのことです。しかし、その「ただそれだけのこと」がわたしたちにとって簡単ではない時があるかもしれません。私たちにはただ信じるということが難しく感じられる時があるかもしれません。だから、「もし、できるなら」と言ってしまうのです。「できれば癒してください」「できれば助けてください」つい、そのように祈ったことはないでしょうか。あるいは、はじめから「きっとできないだろう」、そうあきらめて祈ることをしない時さえあるかもしれません。
そして、そのような時、私たちは結局自分自身の力でなんとかしようとしてしまうのです。自分自身で問題を解決しようとし、そしてやっぱりなんとかできない自分に失望してしまうことがあるのです。父親がまず助けを求めた弟子たちがそうでした。彼らは、自分自身の力で問題を解決できると思いこんでいました。彼らは実際にこれ以前に悪霊を追い出すことに成功していました。ですから、彼らは今回も自分たちの力で悪霊を追い出そうとはりきっていたかもしれません。しかし彼らは、どうして以前に悪霊を追い出すことができたのか忘れてしまっていました。彼らは神様から力を受けていたのでした。神様の力を受けていたので悪霊を追い出すことができたのでした。ところが今、彼らは自分たちの力で悪霊を追い出そうとしました。そして失敗したのでした。ですから、弟子たちは悪霊を追い出すのに「十分ではなかった」とされているのです。このように、私たち人間は時として、信じるべきお方を信じきれないばかりか、忘れてしまうことすらあるのです。そして、頼るべき相手を間違えてしまうことがあるのです。
しかしイエス様は私たちのそのような思いすらご存じです。この父親の「おできになるなら」という言葉に対してのイエス様のお言葉が先ほどお読みした23節です。「イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」ここでイエス様は「できれば」という父親の不信仰を優しく指摘され、「信じる者には何でもできる。」との約束を与えられたのでした。この指摘は責めるための指摘ではなく、父親が自分の中にある不信仰、信じることのできない心と向き合うための言葉でした。
イエス様が「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われた時、父親はすぐにこのイエス様の求めに応じました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」これはこの父親の心からの叫びでした。素直な、そのままの心を神様に打ち明けた父親の祈りでした。父親はイエス様に指摘されて自分の信じることのできない心に気が付きました。しかしそれでもなお、父親は愛する息子を救っていただきたいと強く願ったのでした。イエス様は「信仰のないわたし」と言いつつも「お助け下さい」と嘆願する父親のこの叫びに不信仰の中の信仰を見られました。イエス様は父親の叫びを聞くと、少年から悪霊を追い出されました。この出来事によって救われたのは少年だけではありませんでした。この出来事を通してイエスさまは信じない者を信じる者へと変えてくださったのです。これは父親の信仰の祈りへの応答でした。
父親は「神様から救っていただくにふさわしいほどの、価値ある信仰を持つことができるようにお助け下さい」とは祈りませんでした。私たちはそのように祈る必要はないのです。そのような祈りは無意味なのです。なぜなら救われる望みがない人間が救われるのが救いだからです。父親がただ、救いを求めてイエス様のもとに来た、そしてそのままの心をイエス様に打ち明けた、それだけで救いには十分だったのです。
救いは神様から差し出されています。人間はそれを受け取るだけでいいのです。何もないところに光を、可能性のないところに希望をもたらす。それがイエス様です。神様を信じきれない、信仰のない者が救われるところにこそ希望があるのです。
そして、その希望を実現させた根拠はイエス様の十字架にありました。私たちに救われるべき理由があったからイエス様は十字架にかかられたのではありませんでした。私たちがまだ何もしないうちから、恵みによって既に救いを与えておられるのです。それを私たちはただ信仰によってのみ受け取ることができるのです。そしてその信仰さえも、神様が与えてくださるものなのです。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と私たちは心を素直に神様に打ち明けて祈っていいのです。まだ神様を信じることができない、でも信じたいと思っている。あるいは神様を信じている。でもやっぱりどこかで信じきれない自分がいる。そのような私たちの信仰も不信仰もすべてご存知の方は、私たちが「信仰のないわたしをお助けください。」と不信仰を告白し、助けを祈り求めるのを待っておられます。このお方は私たちの不信仰の中に信仰を見出してくださいます。ですから私たちは信じることのできない自分も含めて、神様にお委ねすることができるのです。イエス様は私たちを信じきれない者から信じる者へとつくりかえてくださるお方です。私たちの素直な気持ちに、祈りにこたえてくださいます。
無力な自分ではなく、力あるイエス様に目を向けましょう。困難の中でこそ、自分自身ではなく、イエス様に頼りましょう。無力な自分を素直にイエス様にうちあけて、信仰をいただきましょう。
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